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雇用、営業、くらし守る政治へ…マサツグの奔走記

福島原発事故の収束を、脱原発へ、被災地復興は住民主体で、構造改革の押付けは許されない。政治のベクトルは常に「人間を幸福にする」ために…その想いで見て聞いて語っての走り書き

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村岡まさつぐのプロフィール

2011.02.01 19:44:02

埼玉県議会議員(1期)
元川口市議会議員・党市議団幹事長、川口市都市計画審議会委員など歴任
党県委員・川口市委員長 一級建築士・埼玉県応急危険度判定士
川口市小谷場在住、家族は妻と1男、趣味・ハイキング
一歳の頃母と
一歳の頃母と
1952年、深谷市に生まれる
祖父が戦死し、父は学校をやめ、15歳から農家の跡取りに


少年時代の村岡まさつぐ
中学2年生の時
 祖父が戦死したため、私の父は学校をやめて、15歳でネギ農家の跡取りになりました。母と3人の弟妹を養い苦労しました。母と3人の弟妹を育て苦労しました。
私は、1952年、4人兄弟の長男として深谷市に生まれ、学校から帰ると農作業を手伝う毎日でした。
中学を卒業し、両親の理解により熊谷工業高校建築科に入学しました。
高校1年の冬には、父が入院し、夜明け前の午前3時頃、父に代わり、ネギをリヤカーにつけて、まだ暗い道を市場へ運ぶこともありました。

1970年、高校卒業、一度就職し、2年後大学へ
学生時代の仕送りの現金書留封筒は,今でも宝物です

 高校卒業後、地元の建築設計事務所に就職し、設計の仕事につきました。2年後「もっと勉強したい」と、東洋大学工学部に入学。
アルバイトに明け暮れた学生時代に、苦しい家計から「生活の足しに」と、両親が仕送りしてくれた現金書留の封筒は、今でも大切な宝物です。

戦争に反対した党があったことに感動して、日本共産党に入党

結婚10年目に生まれた長男にミルクをあげる
結婚10年目に生まれた
長男にミルクをあげる
 夏の暑い盛り、中学生の私は、祖母と畑の硬い土を掘り起こしていました。この作業は女性や子どもには重労働です。「うちは、じいちゃんが戦争で死んでいないから、年寄りのばあちゃんがこんなに辛い思いをするんだ。若くして死んだじいちゃんも可哀想だけど、残された家族も大変なんだ」「戦争がなかったら…」との思いがわき上がりました。この思いが心の片隅にずっとありました。
大学に入学して、戦争に反対した党があったことを知り、その思いとぴたっと重なり感動し、日本共産党に入党しました。
この頃、音大生だった妻・澄江と知り合いました。

1976年、大学卒業、建設会社に就職、順風、倒産・失業と‥‥
家族に苦労をかけた時期が続きました

 

1級建築士として建設現場に立つ
1級建築士として建設現場に立つ
大学卒業後、建設会社に就職。茨城の支店に勤務し、一級建築士としてがんばりました。係長・課長と昇進し、東京に転勤しました。当時、現場監督、不動産取引などに関わり、単身赴任も経験しました。順風と思われたのも、つかの間、バブルの後遺症で会社は倒産し、失業です。家族にもっとも苦労をかけた時期でした。
次に就職した会社は、株式上場に失敗し倒産。私は、センター長をしていました。以前、会社の倒産で辛い思いをした私は、一緒に働く仲間や後輩たちに同じ思いをさせたくないの一心で奔走しました。
その私の姿を見てくれたのか、債権者の社長さんから「うちで働かないか」と声をかけられました。「私心なくまじめに生きていれば、それを見てくれている人がいる」そんな思いが心に刻まれました。
こうした2度の倒産に遭遇した経験が、就職難や長時間労働、非正規雇用などで苦しむ若者への思いと重なっています。
その後、会社勤めから、建築士として起業し、自営しました。

 




1999年、市議会議員に当選
市民の願いの実現へ、みなさんの運動と連携


 1999年、川口市議に当選。2期目に、党市議団幹事長に。この8年間の市議時代、市民の福祉・くらしを守るために働いてきました。2004年12月の川口市議会では、「川口が荒川沖積低地という軟弱地盤の上にあり、大地震が起きれば、甚大な被害が予想される」と指摘し、液状化対策、学校・公民館など公共施設の耐震化の促進、民間住宅の耐震化の助成制度の創設など、震災対策の強化を強く求めました。この提起をきっかけに、民間住宅の耐震診断・改修の独自の助成制度が創設されました。
また、市民のみなさんの運動と協力し、子ども医療費窓口払いの廃止、住宅リフォーム助成制度の創設、学校耐震化工事の促進などにとりくんできました。住環境を改善し、経済波及効果も大きい住宅リフォーム助成は、当時、始まっていた板橋区に調査に出向き、市議会で取り上げ、実現を求め、県内でも、いち早く制度をスタートさせました。
また、市議時代に様々な相談ごとの解決にあたるなかで、多くの方々のお力を借りてきました。草の根のネットワークの力の大きさ、人は社会の構成員として生きている、バラバラじゃないことを実感しました。

4年前、2007年県議選に出馬し、惜敗
〝今度こそ〟の思いを胸に


$雇用、営業、くらし守る政治へ…マサツグの奔走記-ハローワークで実態を調査する
ハローワークで実態を調査する
4年前、約1000票差で日本共産党の県議の議席を引き継げませんでした。この4年間、私は、その時の思いを持ち、市民の願いを国・埼玉県・川口市に届け、その実現にがんばってきました。相談の解決に東奔西走してきました。
いま、住宅リフォーム助成の県制度創設など仕事おこしと雇用対策、国保税の引き下げ、おとしよりと子ども医療費無料制度の拡充などを訴えています。
とりわけ、早朝から夜遅くまで働きずくめの中小企業や廃業一歩手前で悩む商店主のみなさんのくらしや営業の悩みに胸が痛みます。
「『中小企業振興条例』も実効あるものにし、川口の中小企業の振興、地域経済の活性化に、全力でがんばります」と訴えています。

東日本大震災-被災地の救援・復興ためにみなさんと心ひとつに全力!

3月11日の東日本大震災は、戦後最大の大災害をもたらしました。被災したみなさんに心からお見舞い申し上げます。
市内でも工場がメチャメチャになったり、屋根の瓦が落ちたり、壁にヒビが入ったり…。
市内の被災した中小企業の社長さんに話を伺う
市内の被災した中小企業
の社長さんに話を伺う
くわえて、福島第一原子力発電所の事故。埼玉にも双葉町から町長さんはじめ町ぐるみで避難していらっしゃいます。市内でも西スポーツセンターをはじめ、親戚を頼って避難してこられています。

いま、私は被災者救援のための募金活動に全力を挙げています。
そして、自治体に「福祉の心」をとりもどしてこそ、災害から国民・県民の命とくらしを守ることができる、いのちを守る福祉・防災の街づくりの実現めざし全力をかたむけています。

2011年4月10日、埼玉県議会議員選挙に当選。

川口駅東口で東日本大震災救援募金にとりくむ
川口駅東口で東日本大震災救援募金にとりくむ
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