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雇用、営業、くらし守る政治へ…マサツグの奔走記

福島原発事故の収束を、脱原発へ、被災地復興は住民主体で、構造改革の押付けは許されない。政治のベクトルは常に「人間を幸福にする」ために…その想いで見て聞いて語っての走り書き

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鳩ケ谷地区「春のつどい」と三郷市生活保護裁判

2013.02.24 20:41:27


安行太鼓サークル「ひびき」による太鼓 

北日本では今世紀最強クラスの寒波が通過中という時、川口の鳩ケ谷地区では熱気にあふれる「春のつどい」が開かれました。金子ゆきひろ川口市議と私の議会報告のあと、第二部として、太鼓と獅子舞、お琴演奏は「六段の調べ」、フラダンスなど、手作りのお料理にお酒も少々、本当に楽しいつどいでした。

その中で
、「三郷市生活保護裁判」に関わって訴えがありました。裁判はこの20日判決が示され原告の全面勝利となりました。三郷市が控訴をしないよう求める署名の訴えでしたが、用紙が足りなくなる程ご協力をいただきました。みなさん有難うございました。
事件の概要は下の通りです。(埼玉社保協HP)


【事件の概要】
 貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた夫婦と子供二人、4人の家族の生活は、2004(平成16)年末、大黒柱の夫が白血病で倒れたことによって急変。緊急入院した夫の介護のため毎日のように病院に通う中、妻は、夫を失う恐怖と不安で精神を病み、精神科に通院するようになった。一家の生活は、派遣労働者である長男に頼らざるを得なかったが、フルタイムで稼働しても約10万円という収入では、家族の生活を維持していけるはずもなく、2005(平成17)年1月には、一家は家賃と入院費を払えなくなった。
 こうした中、妻は度々、三郷市役所の生活保護の窓口に足を運んだが、その度に職員から「働きなさい」、「自分でどうにかするしかない」「親族に助けてもらいなさい」等と言われ、生活保護の申請を拒否された。この間の生活はとても苦しく妻は前途を悲観して心中まで口に出した。
 2006(平成18)年6月、弁護士が同行してようやく住居費を除く生活保護が開始されたが、三郷市はその直後から、一家に市外への転出を強力に勧めるようになった。そして、葛飾区への転出が決まった8月末、三郷市の職員は「転居後は保護を受けないように」と念押ししたうえで母子を保護の対象から外し、その後まもなく保護を全面的に廃止した。
 
【経過の概要】
・1984年 三郷市に夫妻居住
・1990年までに1男2女をもうける。
・1997年、長女が独立し、1男1女と夫妻の4人暮らし
・2004年12月、夫、白血病で倒れ入院
・同じ頃、妻も精神の疲労が重なり就労不能に。
・2005年1月から、妻は三郷市の福祉課を再三訪ね、生活保護の申請をするが拒否され続ける。
・2006年6月、弁護士が同行して生活保護申請し、受理。
・2006年7月14日、保護開始決定
・この直後から三郷市職員、妻に葛飾区への転居を指示。
・2006年8月23日、葛飾区へ妻と次女が転居する旨の保護変更申請書に署名を強要。その際、妻に転居先の葛飾区での生活保護申請をしないよう指示。
・2006年8月28日、葛飾区へ妻と次女が転居。同2名を保護から外す。
・2006年9月17日、三郷市、夫の一時退院とともに保護廃止決定
・2006年9月29日、葛飾区において生活保護開始決定
・2007年3月15日、生活保護記録一式の証拠保全申立。さいたま地裁越谷支部
・2007年5月9日、同地裁、証拠保全決定
・2007年5月16日、証拠保全実施
・2007年7月11日、さいたま地裁に国賠訴訟提起
・2007年10月31日、さいたま地裁第1回口頭弁論





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